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小学生の頃からぼんやりと自覚していた社会化したオタクとマニアの話

映画が好きです。

 
年に100本とかは観てないですが、人並み以上には映画館に行っていると思いますし、毎月公開されているメジャーな作品は勿論、所謂単館系とかミニシアター系とか呼ばれるような少しばかりマイナーな映画も抑えてると思います。
 
こんな趣味からも分かる通り、一人で遊べるタイプです。
 
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謹賀新年大逆転の話

あけましておめでとうございます。


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なんだかんだで明けるんですねぇ、今年も。

ていうか年ってすぐ明けますよね。

気付いたら明けちゃってますよね。

で、1年って終わるの早いよねえなんて言ってる間に、1年の半分が終わってたりなんかするんですよね。

2015年の僕自身でいえば、去年の1月は大学受験に向けて勉強して、そのあとも引っ越しの準備に慣れない大学生活であっという間に夏になり。

夏休みは実家に帰ってちょっとのんびりしたかなーと思ったら秋なんか葉っぱが色づいた途端に枯れちゃって、なーんもしない間に年を越してるとそんなもんです。

この一年って早いよねえをあと何十回か繰り返したら、一生って早いよねえとか言いながら死んでいくんだろうななんて一人考えるお正月です。

死ぬのは早いにしても、歳をとるってあっという間だなって若干19歳にして生意気にも最近実感します。

焼肉はサガリとホルモンが体に優しいし、トロより赤身が好きです。

あげく同級生に「ことしは申年だけど君の干支はなんだっけ」って聞く始末。

ボケ老人を笑っていられません。まさに明日は我が身です。



話を年越しに戻します。

近年、僕は友達と年を越しています。

僕の実家がある北海道では、基本的に12月31日の夜に豪華な食事をして、そのあとにお蕎麦を食べます。(家庭によっては1日におせちも食べるんでしょうが、僕の周りの道民は基本的におせち食べません)

で、家族と紅白を観ながら(飽きたら隣の部屋でガキ使か格闘技かあるいは映画を観たりします)のんびりして、11時半頃に友達と初詣に行くというのがここ何年かのルーティーンになっています。

年越し、初詣とくればそう、おみくじ。

占いとかの類は信じないしむしろ嫌いなんですけど、友達が必ず引くので僕も引きます。

昔から運のない子供で、福引とかでも一等とか当たったことないんですけど、今年は出ました、大吉。

おみくじ信じてないくせに出ると嬉しい大吉。

だと思ったでしょう?

僕はこの大吉で新年早々憂鬱です。

 おみくじのって良いのが出るほど運が良いなんて言いますけど、僕はむしろ運を使ってるような気がしてならないのです。

運試しなんていいながら、何年もなんねんも溜めてきた運を、大吉を引くことに使ってしまったような気がするんです。

もったいない!

ワンガリ・マータイさんは言いました。

もったいない!!

この言葉でノーベル平和賞です。

僕だって言えます。

正月早々大吉なんてくだらんもん引くのに運を使っちゃってもったいない!

ください、ノーベル賞




自分でも捻くれてるなーと思うんですけど、最近はさらに拍車がかかってきて。

福引で外れたり、おみくじで吉しかでなかったり、信号に何度もひっかかったり、白いシャツにミートソースが跳ねたりすると嬉しいんです。

思っちゃうんです。自分、いま運溜めてるって。

なんでかわかりませんが、僕の中では悪いことが起こると運が溜まって、良いことがあると運を使うっていうシステムになってるらしいです。

つまり僕の運、ポイント制。

困ったもんです。良いことがあるとブルーになり、悪いことが起こると喜ぶ。逆転現象。かなり体に悪そうな考え方です。



ということで、2016年。昼夜逆転…ではなく、老化から逆転して若返りを目標に、ぼちぼち頑張っていきたいと思います。

今年もどうぞよろしくお願いします。





















スター・ウォーズ最新作を公開初回で観てきた話


12月18日18時30分。(日本時間)全世界でシリーズ最新作『スター・ウォーズ フォースの覚醒』が公開され、僕も劇場で観てきました。

本当に良かったです。

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観に行った映画館が立川シネマシティという音響が素晴らしいことで有名な劇場で、耳の奥というか、体の芯というかにダイレクトに響く重低音のおかげもあったかもしれませんが、終始鳥肌立ちっぱなし。

映画が始まってルーカスフィルムのロゴが出てきた瞬間に観客全員が拍手をした時にもうすでに号泣してしまいました。

映画を観ながらも心の底から興奮し、心の底からグッときて、心の底から「ああ、僕はいまスクリーンでスター・ウォーズを観ているんだな」と感じていました。

そうです。僕はスター・ウォーズシリーズを映画館で観るのは始めてなんです。

スター・ウォーズシリーズの第1作目「新たなる希望」が公開されたのは1977年。僕は生まれていません。

これまで最新作だった6作目「シスの復讐」が公開されたのもいまから10年前の2005年。僕はまだ小学生でした。

スター・ウォーズっていうシリーズがあって、どんな内容なのかもだいたい知っているけど、映画館では観たことがなかったし、良さもわからなかった。

でも、いまあの頃から成長して、最新作を劇場に観に行って、スター・ウォーズシリーズの偉大さをひしひしと感じました。

周りの全く知らない初対面のお客さんと、一緒にウオーってなったり、ウルっときたりするのが本当に楽しかった。

隣に座っていた知らない人と「良かったですね」って一言交わして席を立ったあの瞬間が気持ち良かった。

感想を熱く語り合う人たちの声を聞きながら歩く帰り道が本当に心地よかった。


昔中学校の担任に「スター・ウォーズは劇場で観ないと意味がないよ」って言われたことを時々思い出します。

あの時担任が「大画面で見ないと迫力でないよ」って意味で言ったのか、それとも「とりあえず有名なんだから映画館で観とけよ」って意味だったのか。はたまた「あの空気や感覚を味わわないと」っていう意味だったのかはわかりませんが、担任の教えに従って劇場まで足を運んで本当に良かったなーと思いました。

ハッキリ言って何がそんなに楽しかったのかと言われればその場の空気や感覚や雰囲気です。

でもそれがすごいんです。

自分、フォースに目覚めちゃったのかと思いました。

映画を観ながらこんなに色んなことを感じられるなんて、自分のフォース覚醒しちゃったんじゃないかと半ば本気で思いました。

でもそれはきっと半分当たっています。

フォースは様々なものに宿り、流れる力の根源です。

そのフォースも感じられるんじゃないかと思うくらいの一体感が、劇場にはありました。

とりあえず行ってみてください。

そして覚醒させちゃってください、あなたのフォース。

そしてTwitterで呟いちゃってください、「フォースと共にあれ」って。

これであなたもジェダイです。

ジェダイが増えれば増えるほど、フォースを共有できて、映画を観るのが楽しくなる気がした1日でした。

おしまい。








多数派と少数派の続きとLGBTのあれこれの話

「同性愛は異常」だとtweetした岐阜県の県庁職員が問題になっています。

悲しい話です。同性愛者の人たちが「異常」と切り捨てられたことも悲しいですが、何より悲しいのはこの県庁職員が自分は自分が「正常」だと思っていることです。


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前回、どんなものにも多数派はあって、しかもそれにはなんらかの理由があるんじゃないかって話をしました。

それを性的傾向に当てはめて考えてみると、異性愛者が多数派で、同性愛者は少数派ということになるでしょう。

ではその理由はなんなのか。明快です。生物が生きる第一の意味は子孫を繁栄させることだからです。

では最初の話題に返って、同性愛者は「異常」なのか。

生物学的に言えば、これは多分「異常」なんだと僕は思います。

誤解して欲しくないのは、ここで言う「異常」は「生物学的にみれば遺伝子を残す上で不利」とか「自然の摂理に反する」という意味で、それ以上でもそれ以下でもありません。




では社会的に見ればどうなのか。

議論の分かれるところではあると思いますが、僕は同性愛は社会的に「異常」であるとは思いません

そもそも同性愛の歴史は古く、例えばヘレニズムでは少年愛の文化が有名だし、古代ギリシャ神話なんかでも同性愛は描かれています。

日本でも衆道という文化があったし、織田信長武田信玄は両刀だったなんてことが言われたりします。

こういう歴史を見ても、同性愛が社会的に異常であるとは思えません。



今年に入ってから、同性愛者同士を結婚に準ずるパートナーとして認めるという条例を渋谷区と世田谷区が出したことが話題になりました。

保守的な人たちの中には、「同性愛者の結婚を認めれば少子化につながる」という人がいます。

これに対して「同性愛者はそもそも異性と結婚しないんだから少子化とはなんの関係もない」と主張する人もいます。

僕はどちらも正しくはないと思います。

そもそも、です。

きっと純粋なストレートとか、純粋なゲイの方が少ない気がするんです。

きっとこういう性的傾向ってボリュームのつまみと同じで誰でも異性愛と同性愛のツマミがあって。

要はそのツマミがどのくらい回っているかだと思うんです。

異性愛のツマミが大きく、同性愛のツマミが小さい人はストレートと呼ばれ、

その逆はゲイと呼ばれ、

ツマミがどっちも回っている人はバイだと呼ばれる。

そういう感じになっていて、その時々によってツマミは微妙に変わるんだと思うんです。

だから刑務所とか軍隊とか(あるいは男子校とか)、男だけの閉鎖された空間だと同性愛に目覚めるなんていうことが起こっちゃう(でも別にそれはゲイになったわけじゃなくて、もともと同性愛のツマミが大きめに回っていただけ)。

そう考えると、「同性愛と少子化はなんの関係もない」っていう反論は微妙に違って、もしかしたら、途中で自分の同性愛的傾向に気づく(ツマミがちょっと回る)人だっているかもしれない。

そしたら、結婚して子供を作るという選択をしない男だっている、かもしれないわけです。

だからと言って保守的な人の言う「同性愛は少子化を加速させる」ってのも違っていて、例えば同性愛者同士のカップルが子供を作る事例だってあるわけで。

まあ一概に言えない話なんですよ。



でもこれだけは確かなのは、こういう性的傾向は自分で決められることではないってことです。

よく「女にフラれすぎてゲイになった」って人がいますがそれはきっと間違い。その人は潜在的に両刀で(どっちのツマミも回っている人だった)、自分の潜在的な同性愛的傾向に気づいただけ。

もともと自分の同性愛的傾向に気づいている人もいれば、途中で気づく人もいる。刑務所とか軍隊にいても女が好きって人だっています。それは元々そういうものだからです。





だからと言って、ゲイの人たちが「自分たちは虐げられている」と声高に叫んで、主張するのもなんか違うような気が、なんとなくしてしまいます。(ここまでゲイを擁護しておいてなんですが)

多くの人が自分はストレートだと思っている中で、異性愛者が多数派な中で、「同性愛は正常だ!」って叫ぶことは違うような気がするんです。

別にいいと思います。ゲイ同士が結婚したって。

でも、それはゲイの人たちの問題であって、って思っちゃうんです。

女性の社会進出を求める声は大きいです。

でも家で働きたい女性だっていると思うし、その気持ちは尊重されるべきです。

何かを求める声だけが大きくなったって、なんの意味もないのになーと思います。

少数派である左利きが当然に存在しているのと同じように、

少数派である同性愛者も当然も存在しているようになればいいのになーと思います。

そしてそのために、異性愛者である人たちに、同性愛への理解をしてもらうことは全然必要じゃないとも思います。

たけのこの里が好きな人はきのこの山の美味しさが理解できないけれど、

働きたい女性は家を守りたい女性が理解できないけれど、

異性愛者には同性愛者が理解できないけれど、

でもどっちも当然に存在する、みたいな。それくらいがちょうどいい気がします。

おしまい。













左利きにケンカを売るために超論理を展開してみようと思う話

Twitterにアンケート機能なるものが出来たらしいですね。

 

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よく知らないですけどまだ一部ユーザーのみの実装らしいんですが、僕のアカウントには既に実装済みだったので、新しいものが気になってしょうがない僕としては使わない手はない。
 
何度か使って遊んでみました。

ぼくらは究極の選択とともに成長してきた話

早速ですが質問です。

 
「ねえちゃんと風呂入ったことあります?」
 
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さあ答えてください。
 
あるでしょ?ありますよね?
 
大抵の人は「うん」って答えるはずです。
 
万が一「いいえ」って答えるような人がいたら、こんなもん読んでないでちゃんと風呂入ってください。
 
あるいは、いま「いいえ」って答えた人は「ははーん。どうせこいつ『ねえ、ちゃんと』じゃなくて『姉ちゃんと』でしたーとか言いやがるんだろ」って深読みするようなツマラナイ人なのかもしれません。
 
いま読んでくれているあなたがちゃんと風呂に入らない人だろうが、ツマラナイ人だろうがどうでもいいんですけど、おそらくほとんどの人がこのクダラナイ質問を知っていたはずです。
 
多分小学生の時に流行ったんじゃないかなーと思います。
 
今になって考えてみると何が面白いんだって感じですけど。
 
だいたい姉ちゃんと風呂に入ったら何がイケナイのか、サッパリです。(風呂だけに)
 
同じようなもので「パン作ったことある」ってのもあります。
 
これほんとにパンを作ったことない人にとっては全く意味のない質問です。
 
笑顔で「ないよ」って答えてあげましょう。
 
面倒なのはパンを作ったことある時です。
 
笑顔で「あるよ」なんて答えようものなら「うわーこいつパンツ食ったことあるんだってーきったねえー」とか言われてしまいます。
 
だいたいパンツ食ったことがあったら何がイケナイのか、サッパリです()
 
誰が言い出したのか知りませんが、きっと全国の小学校で同じようなやりとりが繰り広げられていたでしょう。
 
森のくまさんを歌う時には「ある日」の後に「貧血」ってつけたいし、「森の中」の後には「カンチョウ」って言いたくなるような小学生たちには、きっと楽しくて仕方なかったんでしょうね。
 
 
 さて。
 
誰が言い出したのか分からないけれど、みんなが知っている。そんな話をご存知ではありませんか。
 
人から人へ。世代を超えて受け継がれていくそんな話は気がつけば奇妙な事態を引き寄せていることがあります。
 
例えばそう。
 
 「う◯こ味のカレーとカレー味のう◯こ、あなたはどちらを食べますか」
 
 

…何となくタ◯リさん風に語ってみましたが。

子供の時にはただ「う◯こ、う◯こ」と言いたかっただけのこの話題。

成長したいま改めて考えてみると、非常に興味深い話であることに気がつくのです。

例えばね、みなさんいま聞かれてたら何て答えます?

だいたい小学生の頃はどっちを選択しても「きたねえー」的な反応をしていたはずです。

それが中学生になると、う◯こ味のカレーを選ぶようになります。う◯こ味だろうがカレーはカレーだということに気がつくのです。そして頑なにう◯こを食ったという事実を作りたくないのです。

高校生になると逆にカレー味のう◯こを選ぶようになります。例えう◯こを食っているのだとしても味はカレーなんだと。例えカレーだろうがう◯この味するようなもん食えるかと。そう考えるようになるんでしょうね。

そして大学生になった僕は思うのです。

う◯こ味のカレーとかいうけど、う◯この味するならそれはもはやカレーではなくう◯こなのではないかと
 
カレー味のう◯こも同様です。カレーの味するならそれはもうきっとカレーなんです。

なんて哲学的な答えなんでしょう。さすが大学生。

と思ったところにもう一人の自分からツッコミが入ります。

「じゃあなんだ、サラダ味のじゃがりこはサラダなのか?」

うっ。それを言われると違います。サラダ味のじゃがりこは絶対にじゃがりこだと思います。



じゃあね、じゃあ。目隠しするとどうなんだって話ですよ。

それはみんな絶対カレー味のう◯こでしょ。

食は視覚からとも言いますし。ビジュアル大事。でもいまその視覚は奪われるわけですから。

わざわざう◯この味するもの食べたい人います?

と、ここでまたもう一人の僕が囁きます。

「じゃあなんだ、鼻をつまめるとすればどうなんだ」

うっ。それを言われると…。味がしないなら、カレー味のう◯こを選んでも特に意味ないしなあ…。
 

 きっと社会人になったらまた新たな答えが出るのかもしれません。

いつかスッキリする日がくるといいな(うんこだけに)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

母の話

うちの母が手術をしています。

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まさに今、手術が終わるころでしょう。

これが結構大変な手術だということは聞いているけれど、命には別状がないはず。

なんですが、ただ今回の手術がどんなもんなのか実ははっきり知りません。

昔からそうでした。

うちの家は別に仲が悪いわけじゃない。

むしろ家族で買い物なんて多いほうだし、車の中の暇な時間はだいたいおしゃべりしています。

それくらいには仲がいいと思ってます。

でもなんとなく、踏み込んだことを言えないというか、例えば母の日にプレゼントはあげるけどはっきり面と向かって「ありがとう」って言えないというか。

改まったことが苦手な家族な気がします。

そんなわけで、手術にはついて聞いたときにも「それは、大丈夫なの?」とは聞けても、「どれくらいやばいの」とはなかなか聞けないし、手術の前日(昨日)電話したときも長々どうでもいいおしゃべりはできるけど「手術がんばってね」とは言えない。

そんな感じです。




だからと言ってブログで母への感謝を今更書き連ねるのもなんかものすごく気持ち悪いので、今日は母の印象的なエピソードを書いてみたいと思います。



僕はこのブログ以外にももう一つブログをやっています。

あっちのブログは映画についてのみのブログで、かなりマニアックなことを書いています。

ただ、映画のブログといっても普通の映画ブログとは少し違うような気がします。

普通は「何の映画を観た。こうこうこういう展開で、あそこが面白かった」なんてな具合に感想を書く人が多いんですが、僕のブログはちょっぴり違っていて。

普通の感想はあまり書かず、その映画の正しい見方、みたいなものを書くブログになっています。

だいたいこう書くと「映画に正しい見方なんてあるか。観た人がそれぞれ考えたことが正しいんだ」なんて言う人が多いです。

うちの母もそうでした。

母は理系な人間でした。国語が得意で数学が苦手なという僕の、バツ印だらけの数学の答案を見るたび言ったものです。

「国語なんてテキトーな学問だ。この時の登場人物の気持ちを答えろなんて、読む人によって違うじゃん。答えがない。でも数学はどこで誰が計算しても同じ答えになる。数学のほうが明確な答えがあるし、よっぽど分かりやすい」

あのとき母は映画じゃなく国語について文句を言っていましたが、別に映画でも小説でも漫画でもなんだっていいんですが、要は読む人・観た人によって解釈なんて違うよ。っていうことを母は言ってました。

数学嫌いの当時の僕は「なるほどたしかに」と感銘を受けたのですが、僕の数学の成績は一向に伸びず。

昔からひねくれていた少年は母は間違っていたのだと、色んな理屈をこねくり回して考えました。

「確かに登場人物の気持ちは読んだ人それぞれが解釈すればいいけれど、一方でハッキリした答えは必ずある。作者がいる限り、作者の考えたことこそが正解なんだ」

「逆にどこで誰が計算しても答えがでるなら、なんでわざわざ俺が答えを出さにゃならんのだ」

と考えたわけです笑 本当に捻くれてるなーと思いますけど、基本的にこの考え方は今でも変わっていません。

映画には必ず「監督の意図」という正解がある。それを観てどう解釈するかは自由かもしれないけど、どうせ観るなら正解の見方で観るべきだ、と思うのです。

だから僕は、何を言っているのか、何を伝えたいのか分かりにくい映画について、その作品の制作過程や監督のインタビュー、原作、時には監督の家族構成や生い立ちなんかまで調べて、作品の解釈の正解を見つけています。

どうせ観るなら、作品のメッセージを誤解することなく受け取りたいからです。


なんか難しい話になりましたけど、いま僕が映画のブログをやっているのはこんなことが根底にあったんだなーなんてぼんやりと考えながら、母の手術が終わるのを待っています。