ぼくらは究極の選択とともに成長してきた話
早速ですが質問です。
「ねえちゃんと風呂入ったことあります?」
さあ答えてください。
あるでしょ?ありますよね?
大抵の人は「うん」って答えるはずです。
万が一「いいえ」って答えるような人がいたら、こんなもん読んでないでちゃんと風呂入ってください。
あるいは、いま「いいえ」って答えた人は「ははーん。どうせこいつ『ねえ、ちゃんと』じゃなくて『姉ちゃんと』でしたーとか言いやがるんだろ」って深読みするようなツマラナイ人なのかもしれません。
いま読んでくれているあなたがちゃんと風呂に入らない人だろうが、ツマラナイ人だろうがどうでもいいんですけど、おそらくほとんどの人がこのクダラナイ質問を知っていたはずです。
多分小学生の時に流行ったんじゃないかなーと思います。
今になって考えてみると何が面白いんだって感じですけど。
だいたい姉ちゃんと風呂に入ったら何がイケナイのか、サッパリです。(風呂だけに)
同じようなもので「パン作ったことある」ってのもあります。
これほんとにパンを作ったことない人にとっては全く意味のない質問です。
笑顔で「ないよ」って答えてあげましょう。
面倒なのはパンを作ったことある時です。
笑顔で「あるよ」なんて答えようものなら「うわーこいつパンツ食ったことあるんだってーきったねえー」とか言われてしまいます。
だいたいパンツ食ったことがあったら何がイケナイのか、サッパリです()
誰が言い出したのか知りませんが、きっと全国の小学校で同じようなやりとりが繰り広げられていたでしょう。
森のくまさんを歌う時には「ある日」の後に「貧血」ってつけたいし、「森の中」の後には「カンチョウ」って言いたくなるような小学生たちには、きっと楽しくて仕方なかったんでしょうね。
さて。
誰が言い出したのか分からないけれど、みんなが知っている。そんな話をご存知ではありませんか。
人から人へ。世代を超えて受け継がれていくそんな話は気がつけば奇妙な事態を引き寄せていることがあります。
例えばそう。
「う◯こ味のカレーとカレー味のう◯こ、あなたはどちらを食べますか」
…何となくタ◯リさん風に語ってみましたが。
子供の時にはただ「う◯こ、う◯こ」と言いたかっただけのこの話題。
成長したいま改めて考えてみると、非常に興味深い話であることに気がつくのです。
例えばね、みなさんいま聞かれてたら何て答えます?
だいたい小学生の頃はどっちを選択しても「きたねえー」的な反応をしていたはずです。
それが中学生になると、う◯こ味のカレーを選ぶようになります。う◯こ味だろうがカレーはカレーだということに気がつくのです。そして頑なにう◯こを食ったという事実を作りたくないのです。
高校生になると逆にカレー味のう◯こを選ぶようになります。例えう◯こを食っているのだとしても味はカレーなんだと。例えカレーだろうがう◯この味するようなもん食えるかと。そう考えるようになるんでしょうね。
そして大学生になった僕は思うのです。
う◯こ味のカレーとかいうけど、う◯この味するならそれはもはやカレーではなくう◯こなのではないかと。
カレー味のう◯こも同様です。カレーの味するならそれはもうきっとカレーなんです。
なんて哲学的な答えなんでしょう。さすが大学生。
と思ったところにもう一人の自分からツッコミが入ります。
「じゃあなんだ、サラダ味のじゃがりこはサラダなのか?」
じゃあね、じゃあ。目隠しするとどうなんだって話ですよ。
それはみんな絶対カレー味のう◯こでしょ。
食は視覚からとも言いますし。ビジュアル大事。でもいまその視覚は奪われるわけですから。
わざわざう◯この味するもの食べたい人います?
と、ここでまたもう一人の僕が囁きます。
「じゃあなんだ、鼻をつまめるとすればどうなんだ」
うっ。それを言われると…。味がしないなら、カレー味のう◯こを選んでも特に意味ないしなあ…。
きっと社会人になったらまた新たな答えが出るのかもしれません。
いつかスッキリする日がくるといいな(うんこだけに)