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多数派と少数派の続きとLGBTのあれこれの話

「同性愛は異常」だとtweetした岐阜県の県庁職員が問題になっています。

悲しい話です。同性愛者の人たちが「異常」と切り捨てられたことも悲しいですが、何より悲しいのはこの県庁職員が自分は自分が「正常」だと思っていることです。


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前回、どんなものにも多数派はあって、しかもそれにはなんらかの理由があるんじゃないかって話をしました。

それを性的傾向に当てはめて考えてみると、異性愛者が多数派で、同性愛者は少数派ということになるでしょう。

ではその理由はなんなのか。明快です。生物が生きる第一の意味は子孫を繁栄させることだからです。

では最初の話題に返って、同性愛者は「異常」なのか。

生物学的に言えば、これは多分「異常」なんだと僕は思います。

誤解して欲しくないのは、ここで言う「異常」は「生物学的にみれば遺伝子を残す上で不利」とか「自然の摂理に反する」という意味で、それ以上でもそれ以下でもありません。




では社会的に見ればどうなのか。

議論の分かれるところではあると思いますが、僕は同性愛は社会的に「異常」であるとは思いません

そもそも同性愛の歴史は古く、例えばヘレニズムでは少年愛の文化が有名だし、古代ギリシャ神話なんかでも同性愛は描かれています。

日本でも衆道という文化があったし、織田信長武田信玄は両刀だったなんてことが言われたりします。

こういう歴史を見ても、同性愛が社会的に異常であるとは思えません。



今年に入ってから、同性愛者同士を結婚に準ずるパートナーとして認めるという条例を渋谷区と世田谷区が出したことが話題になりました。

保守的な人たちの中には、「同性愛者の結婚を認めれば少子化につながる」という人がいます。

これに対して「同性愛者はそもそも異性と結婚しないんだから少子化とはなんの関係もない」と主張する人もいます。

僕はどちらも正しくはないと思います。

そもそも、です。

きっと純粋なストレートとか、純粋なゲイの方が少ない気がするんです。

きっとこういう性的傾向ってボリュームのつまみと同じで誰でも異性愛と同性愛のツマミがあって。

要はそのツマミがどのくらい回っているかだと思うんです。

異性愛のツマミが大きく、同性愛のツマミが小さい人はストレートと呼ばれ、

その逆はゲイと呼ばれ、

ツマミがどっちも回っている人はバイだと呼ばれる。

そういう感じになっていて、その時々によってツマミは微妙に変わるんだと思うんです。

だから刑務所とか軍隊とか(あるいは男子校とか)、男だけの閉鎖された空間だと同性愛に目覚めるなんていうことが起こっちゃう(でも別にそれはゲイになったわけじゃなくて、もともと同性愛のツマミが大きめに回っていただけ)。

そう考えると、「同性愛と少子化はなんの関係もない」っていう反論は微妙に違って、もしかしたら、途中で自分の同性愛的傾向に気づく(ツマミがちょっと回る)人だっているかもしれない。

そしたら、結婚して子供を作るという選択をしない男だっている、かもしれないわけです。

だからと言って保守的な人の言う「同性愛は少子化を加速させる」ってのも違っていて、例えば同性愛者同士のカップルが子供を作る事例だってあるわけで。

まあ一概に言えない話なんですよ。



でもこれだけは確かなのは、こういう性的傾向は自分で決められることではないってことです。

よく「女にフラれすぎてゲイになった」って人がいますがそれはきっと間違い。その人は潜在的に両刀で(どっちのツマミも回っている人だった)、自分の潜在的な同性愛的傾向に気づいただけ。

もともと自分の同性愛的傾向に気づいている人もいれば、途中で気づく人もいる。刑務所とか軍隊にいても女が好きって人だっています。それは元々そういうものだからです。





だからと言って、ゲイの人たちが「自分たちは虐げられている」と声高に叫んで、主張するのもなんか違うような気が、なんとなくしてしまいます。(ここまでゲイを擁護しておいてなんですが)

多くの人が自分はストレートだと思っている中で、異性愛者が多数派な中で、「同性愛は正常だ!」って叫ぶことは違うような気がするんです。

別にいいと思います。ゲイ同士が結婚したって。

でも、それはゲイの人たちの問題であって、って思っちゃうんです。

女性の社会進出を求める声は大きいです。

でも家で働きたい女性だっていると思うし、その気持ちは尊重されるべきです。

何かを求める声だけが大きくなったって、なんの意味もないのになーと思います。

少数派である左利きが当然に存在しているのと同じように、

少数派である同性愛者も当然も存在しているようになればいいのになーと思います。

そしてそのために、異性愛者である人たちに、同性愛への理解をしてもらうことは全然必要じゃないとも思います。

たけのこの里が好きな人はきのこの山の美味しさが理解できないけれど、

働きたい女性は家を守りたい女性が理解できないけれど、

異性愛者には同性愛者が理解できないけれど、

でもどっちも当然に存在する、みたいな。それくらいがちょうどいい気がします。

おしまい。