オープンワールドについて考えようと思ったら小島秀夫と『デス・ストランディング』のすごさを再確認した話 ゲームの自由度とオープンワールドの現在・序
2020年4月に記事を上げてから、9ヶ月もの月日が経過してしまっているわけですが皆さま如何お過ごしでしょうか。
4月の記事からも分かる通り、この空白の9ヶ月とはすなわち、例のウイルス(僕称新コロ)によって僕らが今までとは違う生活を送った時期な訳です。
そしてそれは僕にとって、STAY HOMEがどうので以前にも増して家にいる時間は増えたものの、かといって日常を書く気にもなれず(書きたいことはいくつかあったけど気分が全然乗らなかった)にいた時期です。
(とはいえ何もアウトプットをしていなかったわけではなく、「私事ではない何か」を書くためのnoteを始めたりしてました。気になる方はこちらもお付き合いください)
前置きが長くなりましたが、今日はテレビゲームの自由とは何か、ということについて僕が考えたことを書きたいと思います。正確にはオープンワールドと自由の関係性についてです。
2020年、家にいる時間が長くなった結果いつもよりもゲームをする時間や本数が増えたのかと言われれば全くそんなことはなく、 例年と同じような消化率か、あるいは読書や映画や昼寝などの他の余暇(主に昼寝)に時間を食われ前年よりも少ない消化量だったかも分かりません。
にも関わらず僕が今改めてゲームの自由度に思いを馳せているのは2020年の間にプレイしてきたゲームタイトルに理由があるのだと思います。
最初のきっかけは2019年11月にコジマプロダクションが制作した『DEATH STRANDING』(デス・ストランディング)というゲームです。
コジマプロダクションとは小島秀夫(通称監督)が率いるゲーム制作会社で、この小島秀夫という人は世界的にものすごく有名なゲームクリエイターです。
僕は有名なゲームをちゃんとプレイしてきていないし、その歴史に精通しているわけでもないのですが、これまでテレビゲームにはエポックメイキング的な発明がいくつかなされ、その度にクリエイティブの潮流は大きく変化してきたと理解しています。
例えば後述するようにマップを自由に歩けるオープンワールドはその後の(特に大手メーカーが発売するゲームの)主流になったし、シューティングジャンルにおける基本無料バトルロワイヤルとシーズンパスによる課金システムは今も大流行中です。
そして小島秀夫というクリエイターはそうしたエポックメイキングを何度も作った天才的な人だと思います。
なのでものすごい熱烈なファンが存在しているのと同じくらい、アンチも多いクリエイターです。
(アンチの主な理由は発表から発売まで何度も延期をする、毎度の予算が莫大にかかっている、など。ゲーム界における庵野秀明的な人だと言っていいかもしれません。彼よりもマイルドだと思うけど)
例えば、彼の代表作である「メタルギアシリーズ」は戦うことがメインのアクションゲームに「戦わない」という選択肢を提示し、「敵に見つからない、隠密にクリアする」そのシステムは「ステルスアクション」と呼ばれ今ではほとんどの(オープンワールド)アクションにその要素が含まれています。(似たようなテーマのゲームには「ヒットマンシリーズ」、ステルス要素を含むアクションは枚挙に遑がないですがここではさらにそれを洗練させた例として『ウォッチドックス』を挙げておきます)
或いは2014年8月に無料配信された『P.T.』というホラーゲーム(の体験版、タイトルはプレイアブル・ティーザーすなわち操作可能な予告の意)もその後のホラーゲームの大きな潮流を作り出しました。
同作は一人称視点の攻撃手段を持たない主人公がループする家屋に散りばめられた難解すぎる謎を解きつつ謎の存在から逃げる、という特徴のゲームです。しかも主人公は誰で、ここがどこで、なぜループしていて、何から逃げているのか、などの情報は事前に全く共有されず、プレイしながら集めた断片的な情報を頼りに想像するしかないという設定から配信直後より様々な考察が展開され、現在でもカルト的な評価を受けている作品です。
ちなみにこのゲームは後にコナミ制作の「サイレント・ヒル」シリーズ最新作の体験予告であることが分かるのですが、小島秀夫はコナミを退所したことなどにより開発は中止。『P.T.』自体も翌年5月に配信が停止されたという経緯などもカルト人気の所以となっています。詳しい経緯はWikipediaの当該記事を読むだけでも面白いのでぜひ。
結局ゲームの本編は発売されることがなかったわけですが、にも関わらず賛否両論とにかく話題になり、こうした要素は後に発売される『バイオハザード7』や『Visage』などに色濃い影響を与えていることを感じさせます。(ただし同じような要素のホラーゲームとして『P.T.』発売以前に『OUTLAST』などがあったことも付け加えておきます)
そんな小島秀夫というクリエイターがコナミを退所・独立して満を辞してリリースしたのが『DEATH STRANDING』なのです。
このゲームはとある理由により人口が激減、人々のほとんどが外出せず各地に作られたシェルターの中で生活するようになったアメリカが舞台。(こう考えると流行前とはいえ今の我々の生活に通じるものがあります)
主人公はそんな世界で地下都市やシェルター間を移動し荷物を届ける配達人。
つまりこのゲームはオープンワールドのマップを好きなように歩いて荷物を運ぶ、言ってしまえばただそれだけのゲームです。
こう言うと本当にそれだけでゲームになるのか、面白いのかと思われるかと思いますが、僕はめっちゃ面白かった。
大きな理由は二つ。
一つ目はオープンワールドを生かした自由さがあると言うこと。
一般に『グランド・セフト・オート』シリーズがそのジャンルを確立したと言われているオープンワールドというシステムは、それまではメモリ容量の制約などによってマップ間の移動にはロード時間が存在した(そのロード時間を扉が開く描写にし恐怖として演出したのが『バイオハザード』)ものを、常にロードし続けることでシームレスに世界が繋がっているように見せるシステムです。
これによりプレイヤーは一つの広大なマップを探索している感覚を味わえ、またマップ内であればどこにでも行くことができる、という「自由」と「リアルな没入感」を体験することができるようになりました。一方でオープンワールドとはいえ無限に世界が広がっているわけではないので、ゲーム内のいわゆる「世界の果て」をどのように処理するのかや、一見行けそうに見えて行くことができない地形、存在するのに中には入れない建物(造形物のハリボテ化)とそれによるマップの空疎化などの問題も発生することになりました。
『DEATH STRANDING』ではマップの端である海や川が、底なし沼のようになってしまったという設定により「世界の果て」問題を解決し、また入れない建物は地上都市そのもが崩壊しているため作りこむ必要がなく、デシマエンジンという制作ソフトウェアを使うことによる綺麗なグラフィックかつ高度な演算処理(柔らかい地形を歩くと跡がつく)と目に見える場所にはほとんど足を踏み入れられることを可能にしています。
また広大なオープンワールドに伴うマップの空疎化問題には、そもそも文明が荒廃した広大な大自然を荷物を背負って歩くことが醍醐味のゲームなため建物の細かい作り込みの必要性を排除して解決しています。
「自由さ」はこれだけではなくプレイヤーの選択肢の広さにも表現されています。都市から都市へと移動するルートは決められていなく、最短距離で山を突っ切るルートを選択することも、遠回りをしつつ平坦でなだらかな地形のルートを選択することも自由です。またそうしたルートの選択はハシゴやロープや武器などの装備を増やし荷物の比重を減らすのか、あるいは逆に平坦で装備の必要が無いルートを大量の荷物を背負って行くのかという選択にも繋がるため、「自由な戦略」を立てることが可能なのです。
ところが、一人で行くことは孤独で、困難が伴います。
それを解決しているのが二つ目の理由。
このゲームは他のプレイヤーと協力するオープンワールドゲームであるという点です。
通常、オープンワールドの協力ゲームでは、協力する他のプレイヤーと同じ世界が共有され、そしてそのプレイヤーは自分の画面に映し出されます。
他社の存在が目に見える、のが普通です。
ところが『DEATH STRANDING』では違います。NPCキャラ以外に画面に登場するのはあくまでも主人公サム一人だけ。
ではどうやって他のキャラクターと協力するのかというと、自分以外のプレイヤーが立てた目印の一部が自分のゲーム世界に共有され、それらはあたかも以前に誰か(サムワン)が通った痕跡のように残されます。
敵が出没する地点に「注意」の看板を立てたプレイヤーがいたり、急な斜面にハシゴを立てたプレイヤーがいたり、雨が降る地点に休憩所を作ったプレイヤーがいると、それらの看板やハシゴや休憩所が自分のゲーム世界に現れてくることがあるのです。
自分以外のプレイヤーそのものが出てくることは無いけれど、全世界のプレイヤーの存在を感じることができるわけです。
そしてそれは逆のことも起こり得ます。すなわち自分が立てた看板やハシゴや休憩所は、他プレイヤーのゲーム世界に影響を与える可能性があるのです。
つまり自分が乗り越えるために使った道具が、どこかで他の誰かの役に立つ可能性があるのです。日本ではこれを「情けは人の為ならず」などと言いますが。
しかも自分以外が立てたり置いたりしたものには「イイネ」をすることもできるため、より自分にも、他人にも役に立つことをしようと思わされるゲームなのです。
義務ではなく、自ずから、人に優しくできるゲームとも言えます。
さらに僕が感動したのはゲームのストーリーとの関係です。主人公は人々が各シェルターに閉じこもり、人と人、都市と都市との繋がりが失われてしまったアメリカを再び繋ぎ直すという使命が、ストーリーの序盤で与えられます。
そのために都市と都市の間を行き来することになるわけですが、このストーリーを進めるために、目には見えない全世界の誰かと必然的に協力するシステムになっているわけです。
このストーリーとゲームシステムの一致の美しさ、ゲームを進めることが人間の優しさに繋がっている構造の素晴らしさが、このゲームを名作たらしめている理由だと思います。
ここまで『DEATH STRANDING』と小島秀夫のすごさについて長々書いたわけですが、本来僕が書きたかったのはオープンワールドの自由さについての考察です。つまりこのゲームをプレイしてオープンワールドというシステム自体の限界みたいなものに僕は気が付いてしまった気がしたわけです。
それは前述した「広大なマップとその空疎化」問題の処理です。
ここ何年かの間に話題を呼んだオープンワールドアクションで、同じデシマエンジンを使ったゲームに『Horizon Zero Dawn』(ホライゾンゼロドーン)という作品があります。
この作品はゾイドみたいな機械獣が暴走し世界を乗っ取ったことで人類は絶滅寸前に追いやられ文明も衰退。主人公は世界を再び人間のものにするために奮闘するというゲームで個人的にとても好きなのですが、このゲームでも前述の問題を「滅んだ世界が舞台なのでそもそも都市を作り込む必要が無い」という設定によって解決しています。
つまり『DEATH STRANDING』と全く同じ解決策なのです。
ここから僕がしたいのが
更なるメモリや処理能力の向上がない限り、オープンワールドにおける都市内部の作り込みが無い問題を解決する手立ては「荒廃した世界を舞台とすることで廃墟ばかりを描けば良い」
という一点にしか無いのではないか、という問題提起です。(だれ)
が、この記事ではすでにかなりの文字数を消費したため、更なる考察を次回にすることとし、さらに二つのゲームを取り上げて論を進めようと思います笑
今日はここまで。おしまい。
(こんなに長くなると思わなんだ)