母の話
うちの母が手術をしています。
まさに今、手術が終わるころでしょう。
これが結構大変な手術だということは聞いているけれど、命には別状がないはず。
なんですが、ただ今回の手術がどんなもんなのか実ははっきり知りません。
昔からそうでした。
うちの家は別に仲が悪いわけじゃない。
むしろ家族で買い物なんて多いほうだし、車の中の暇な時間はだいたいおしゃべりしています。
それくらいには仲がいいと思ってます。
でもなんとなく、踏み込んだことを言えないというか、例えば母の日にプレゼントはあげるけどはっきり面と向かって「ありがとう」って言えないというか。
改まったことが苦手な家族な気がします。
そんなわけで、手術にはついて聞いたときにも「それは、大丈夫なの?」とは聞けても、「どれくらいやばいの」とはなかなか聞けないし、手術の前日(昨日)電話したときも長々どうでもいいおしゃべりはできるけど「手術がんばってね」とは言えない。
そんな感じです。
だからと言ってブログで母への感謝を今更書き連ねるのもなんかものすごく気持ち悪いので、今日は母の印象的なエピソードを書いてみたいと思います。
僕はこのブログ以外にももう一つブログをやっています。
あっちのブログは映画についてのみのブログで、かなりマニアックなことを書いています。
ただ、映画のブログといっても普通の映画ブログとは少し違うような気がします。
普通は「何の映画を観た。こうこうこういう展開で、あそこが面白かった」なんてな具合に感想を書く人が多いんですが、僕のブログはちょっぴり違っていて。
普通の感想はあまり書かず、その映画の正しい見方、みたいなものを書くブログになっています。
だいたいこう書くと「映画に正しい見方なんてあるか。観た人がそれぞれ考えたことが正しいんだ」なんて言う人が多いです。
うちの母もそうでした。
母は理系な人間でした。国語が得意で数学が苦手なという僕の、バツ印だらけの数学の答案を見るたび言ったものです。
「国語なんてテキトーな学問だ。この時の登場人物の気持ちを答えろなんて、読む人によって違うじゃん。答えがない。でも数学はどこで誰が計算しても同じ答えになる。数学のほうが明確な答えがあるし、よっぽど分かりやすい」
あのとき母は映画じゃなく国語について文句を言っていましたが、別に映画でも小説でも漫画でもなんだっていいんですが、要は読む人・観た人によって解釈なんて違うよ。っていうことを母は言ってました。
数学嫌いの当時の僕は「なるほどたしかに」と感銘を受けたのですが、僕の数学の成績は一向に伸びず。
昔からひねくれていた少年は母は間違っていたのだと、色んな理屈をこねくり回して考えました。
「確かに登場人物の気持ちは読んだ人それぞれが解釈すればいいけれど、一方でハッキリした答えは必ずある。作者がいる限り、作者の考えたことこそが正解なんだ」
「逆にどこで誰が計算しても答えがでるなら、なんでわざわざ俺が答えを出さにゃならんのだ」
と考えたわけです笑 本当に捻くれてるなーと思いますけど、基本的にこの考え方は今でも変わっていません。
映画には必ず「監督の意図」という正解がある。それを観てどう解釈するかは自由かもしれないけど、どうせ観るなら正解の見方で観るべきだ、と思うのです。
だから僕は、何を言っているのか、何を伝えたいのか分かりにくい映画について、その作品の制作過程や監督のインタビュー、原作、時には監督の家族構成や生い立ちなんかまで調べて、作品の解釈の正解を見つけています。
どうせ観るなら、作品のメッセージを誤解することなく受け取りたいからです。
なんか難しい話になりましたけど、いま僕が映画のブログをやっているのはこんなことが根底にあったんだなーなんてぼんやりと考えながら、母の手術が終わるのを待っています。