お前のモノは俺のモノ、俺たちのモノは一体誰のモノになっていってしまうんだろうの話

毎月必ずブログを書くという誓いを立ててからそろそろ一年が経とうとしていますが、その志も半年ほどで潰え、それでも年内にしっかり今年を締める話を書かねばならないと思い、年の瀬に慌ててこの記事を書いています。

 

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とはいえ取り立てて面白いこともなく、書きたいと思うことといえばグレタ嬢のことくらいのことで、でも僕が言いたいことはすでに少年天才革命家ゆたぼんに向けて書いたこととほぼ同じだなと思ったり。(そういえばゆたぼんってどこ行った?学校?)

 

ということなので、今日はスターウォーズの話を書こうと思います。

 

 

さあ、グレタの次点で若干怪しくなっていた読んでいる人の顔色が、(ゆたぼんで若干興味を引いたとはいえ)スターウォーズという単語でさらに曇って行くのが手に取るようにわかります。

 

でも読んで欲しい。これは僕の、スターウォーズに対する長い惜別の辞です。

 

わかる。わかります。友達が恋人と別れて傷心して歌っている西野カナを聞かされることほど苦痛なことはこの世にはないでしょう。

 

でも聞いて欲しい。

 

僕のスターウォーズに向けた「もう恋なんてしない」を。あるいは「366日」を。なんでもいいけど。

 

以下、スターウォーズシリーズに関する壮大なネタバレがありますので、まだ観てないとかいう非国民ならぬ非銀河帝国民は読まないことをオススメします。

 

 

 

スターウォーズシリーズは1977年から始まった壮大なスペースファンタジーないしスペースオペラないしサイエンスフィクションシリーズです。(この辺の分類はめんどくさいので割愛)

 

そのシリーズの(一応の)完結篇がこの度公開され、僕もライトセーバーを持参し、深夜12時ぴったりに始まる最速上映に足を運びました。(ちなみにその1時間ほど前まで会社の忘年会に参加してからの参戦です。それくらいのことをしても初日に見たかった)

 

いよいよあの壮大なシリーズが終わるんだという感慨から、観てからの一週間くらいはまったく評価が定まりませんでした。

 

それでも時間が経って冷静になり、誰の評価も耳に入れていない状態で、僕なりの評価をしようというのが今回の記事です。

 

ハッキリ言います。

 

今作「スカイウォーカーの夜明け」はクソです。

 

そして前作「最後のジェダイ」も言うまでもなくクソだし、そしてそしてそれに伴い前前作「フォースの覚醒」もクソという評価に引き下げざるをえなくなってしまいました。

 

つまるところ、続三部作というトリロジーはクソだったということです。

 

ここで、僕が続三部作をどういうものと思っているのかを書いておきましょう。

 

続三部作の一作目「フォースの覚醒」は久しぶりのスターウォーズの新作で、そしてスターウォーズというシリーズが4、5、6、1、2、3、と変則的な順番で公開されているため、6作目「ジェダイの帰還」以来本当に久しぶりにストーリーが進む作品でした。

 

とはいえ、シリーズの核となっているスカイウォーカー家の話、もっといえばフォースのバランスに関する話は1〜6作目で一応の完結をしており、そこからどのようにストーリーが展開されていくのかが焦点となっていました。

 

ところが何年か前に、スターウォーズというシリーズはこれまで一貫して指揮を執っていたジョージルーカスの手を離れ、そしてずっと配給をしてきた20世期FOXからも配給されなくなり、天下のディズニーの手に渡りました。

 

一時はディズニーに移ってからもルーカスが監督するという案もあったようですが、どうも折り合いが悪くなったらしく、キャスリーンケネディというプロデューサーの下、三部作を3人の監督で製作するという方法が取られることになりました。

 

7作目「フォースの覚醒」を監督したJJエイブラムスは、僕は当初はとても好意的に受け入れていました。7作目は旧作ファンへのサービスもたっぷりありつつ、レイ、フィン、ポーという新たな、魅力的なキャラクターが創造され、新しいシリーズの幕開けを予感させるものだったと思います。

 

伏線を貼るだけ貼って、すべてを次回以降に丸投げしているという評価もあるそうですが、三部作なんだから当たり前だと思います。何よりこの作品は一つの映画としても成立していたということがとても良かったと思っていました。

 

ところが、問題だったのはこれに続く8作目「最後のジェダイ」。監督がライアン・ジョンソンでしたが、公開後評価が二分されました。

 

僕はこの作品を見た時の怒りを昨日のことのように覚えています。

 

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まったく進まないストーリー。必要のないキャラクター。フォースのインフレ。今までの全てが無に帰す展開。

 

諸悪の根元はここだと思っています。

 

評価が荒れに荒れた8作目の流れを戻すべく、監督は当初のコリントレボロウから再びJJエイブラムスに戻り、なんとか結末に持ち込んだのが9作目「スカイウォーカーの夜明け」でした。

 

なんとかまとめたなという感はあったものの、それは前作での惨状をなんとか収めただけのことで、大幅なマイナスがちょっとのマイナスになったことで相対的に良かったねという評価にしか僕はなりませんでした。

 

 

 

このシリーズを台なしにした原因は二つあると僕は思います。

 

一つ目は監督がバラバラだったこと。こんな風になるなら、最初から三作ともJJエイブラムスがメガホンを取ればよかったのではと思うのは僕だけでしょうか。

 

監督を作品ごとに変えるなら、せめてプロデューサーである(最高指導者)キャスリーンケネディが三作にわたる大まかなビジョンと筋をつけるべきなのでは?

 

それぞれの監督が好き勝手に作り上げ、結局なんの統一性もないシリーズ、というのが続三部作の僕の印象です。

 

そして二つ目の原因は作品がディズニーに渡ったこと。

 

ディズニーといえば、みんな大好きマーベルシネマティックユニバースで作品のバース化、たくさんの作品が結びつく大きな世界を作ったことで有名です。

 

おそらくディズニー的にはスターウォーズシリーズも同じようにしていきたかったんでしょう。(現にディズニーは九部作で終わりというルーカスの当初の構想を無視しを、100年続けていくという夢想を語っています)

 

そして同時に、これまでスターウォーズを観ていない層も取り込みたかった。

 

これは素晴らしいことだと思います。

 

新規参入のない世界は、徐々に衰退してしまう。

 

ところが、問題だったのはろくにスターウォーズのファンでもないような奴らの声までを作品に反映させてしまったことだと思います。

 

昨今、世界中でポリコレの嵐が吹き荒れています。日本も例外でなく。

 

曰く、作中で黒人やアジア人も出すべきだ。曰く、LGBTに配慮せよ。曰く、公共の秩序にそぐわない表現はするな。

 

こうして出来上がったのが続三部作というバケモノです。

 

インターネットにより世界はつながり、豊かになった。

 

ところがそれによって、“政治的に正しいもの”しか認めないという風潮が広がった。

 

そしてそれはスターウォーズも例外ではなかった。

 

なぜならスターウォーズはディズニーのものであり、それはすなわち、

 

スターウォーズはみんなのものになったということなのですから。

 

みんなのものなので、誰も傷つかないような配慮と、規制と、自省にまみれた作品になる。

 

スターウォーズファンなんて糞食らえなんですよ。彼らにとって。

 

これまでの文脈とか、歴史なんて関係ない。全てはディズニーという帝国の下でみんなのためのスターウォーズが作られる。

 

政治的に正しいことというのはもちろん大事なことでしょうよ。

 

そのために、いろんな人種を出すというのもわかる。

 

でも出すなら、しっかり文脈のあるキャラクターにしてくれよ。

 

アジア人を出す必要があるのでキャラを出します。たいして脈絡もないけどいいんです。なぜならアジア人を出すことは政治的に正しいことなので。

 

そんなのは本当にポリティカリーにコレクトネスなのか?

 

そもそも作品は、政治的に正しいものばかりを作るべきなのでしょうか。

 

そもそも政治的に正しいって誰が決めてんだよ。

 

僕は最近この政治的に正しい判断にうんざりしています。

 

 

 

日本でも、献血のポスターにアニメ調の萌系の女の子が使われているといって問題になりました。

 

自衛隊の募集ポスターも同じように問題になりました。

 

一体全体何が問題なのか本当に分からない。

 

実際に性被害に遭っている少女がいるならともかくとして、作品の中でのそれまでを取り締まることになんの意味があるんでしょう。

 

しかもそうやってポリコレの下に様々なコンテンツを規制する奴らが、同じ口でエロ表現満載のBLが受け入れられていることに歓喜している。

 

曰く「多様な性表現が受け入れられた」とかなんとか言って。

 

エッチなお兄さんの局部が描かれた作品が市民権を得る一方で、エッチな女の子の表現はなぜ規制されるんだ。

 

その境目はどこにあるんだ。

 

 

 

もう俺たちの愛しているモノたちは、ポリコレの世界の下でみんなのものにどんどんなっていくんだと思う。

 

みんなが傷つかないように、最大限配慮された形で提供される娯楽。

 

画一的で、新時代的だと謳われながら、政治的に正しい作品ばかりが作られる。

 

たいしてファンでもないような声のでかいやつらのために。

 

そんなもののどこが、多様性なんだ。

 

ふざけんな。良いも悪いも、酸いも甘いも、清濁合わせのんでこそ豊かで、多様で素晴らしいもんが生まれるんだろ。

 

政治的に間違った作品があったって、不適切な表現があったって、別に構わないじゃないか。

 

それを不適切だとか、間違ってるとか、そういうことを各々が判断し取捨選択し、ときには批判すればいいじゃないか。

 

そういうものがなくなったら、何が間違ってるかなんて分からなくなっちゃうじゃないか。

 

 

 

でも多分、こんな僕の叫びも不適切だと言われ、いつか僕も改宗を迫られるんでしょう。

 

心のそこからざんねんだけど、それが“みんなの”選択なら仕方ないね。

 

年の瀬にこんなこと言いたくなかったけれど、本当にざんねんな年末でした。

 

僕の中でのスターウォーズがは死んでしまったけれど、新たなる希望が到来する日を夢見て、僕は来年も生きていこうと思いました。

 

おしまい。

 

良いお年を。