生きることと死ぬことの話
ダルちゃんを読みました。
かなり前から話題になっていることは知っていいたのですが、これまた長いこと積まれていて手をつけておりませんでした。
昔はこの積ん読というものの概念がよくわかっておらず、買った本はすぐに読むし、読み終わらないと次の本は買わないタイプだったのですが、大学生になったころから全く気にしなくなり今も僕の本棚にはカバーのかかった本が7冊くらい平積みされています。
4月くらいに書いた記事に、僕の高校2年生の時の担任がコメントしてくれたことがありました。
なんの文脈だったのかはあまり覚えてませんが、彼は「本を買うというのは契約みたいなものだ」と言いました。
曰く「SNSやブログはいつでもスルーできてあちこちからアピールもできるけど、一度部屋に持ち込んだりカバンに入れたりしたらその時点で読まなきゃ!って契約がスタートする本という媒体はヒトのいい加減さに似てる」とのことで。
あながち間違いでもないなと思うのは今回みたいに、買ってさえおけばいつかの自分がその時の体調と都合に合わせて読んでくれる日が来るんですよね。
やっぱりモノとして存在しているのも大事だなと思ったり。
ダルちゃんの話をします。ちょっとだけ。
色々なところでプッシュされている作品なので文句なしに素晴らしかった
ですが、詳しい内容は是非買って読んでください。
フルカラー100ページちょいの2冊完結の漫画で、2000円くらいあれば買えます。
こんな素晴らしい作品が一回買えば永遠に読めるので実質タダといってもいいかもしれません。
軽く触れておくと、派遣社員として会社の事務をやっている主人公のダルちゃんは自分が人と違い外でもダルっとしてしまうのを必死に隠し、ちゃんとした人に擬態して生活しているのですが、会社内の人間関係で色々あり、友達ができたり、彼氏ができたりしていると。
で、人間関係の色々で傷心していたところに友達が詩集を貸してくれて、それを読んだことがきっかけでダルちゃんも詩を書き始め雑誌に掲載されるまでになるんですね。
ところがその内容というのが付き合っている彼氏とのことで、実名とかは出していないものの、彼の左足にある障害のことを(ほとんど言及してないけれど)詩の中にモチーフ的に出してしまって、彼氏からああいうのはやめてほしいと言われてしまうエピソードがあるんですよ。
彼氏は「自分はあなたとの関係を隠したいわけでもないけれど、他の人たちが何にも知らないであろう自分たちのことを色々言うのが嫌なんだ」と。
「何かを表現する人が自分のことを隠さず書きたいものだと言うのは分かるが、自分には無理だ」っていうことを言うんですよ。
このエピソードが彼女たちの関係をどう変えて、この彼氏の言葉にダルちゃんがどう答えるのかはぜひ漫画を買って読んでいただきたいのですが、僕はダルちゃんの答えに心を動かされ、泣きました。
そしてだから僕は今、やおら起き上がってこれを書いているわけです。
ほぼ自分の知り合いしか見ていないようなブログを書いている僕が言うのもなんですが、物語じゃなくこういう文章を書いているからこそ、僕はどこまで書いていいのかいつも迷っています。
文章にしたことでこれは形に残るし、それによって嫌な思いをする人もいるかもしれない。
あるいはこんなことを書いて不謹慎だと思われるかもしれない。
でも僕なりに、本当に面白いことや、誰かの心を動かせるかもしれないこと、少なくとも僕の心が動いた話を全て完璧にするためには、立ち入らなくてはならない領域がある。
いつも迷っています。
でも僕はダルちゃんを読んで、書かなきゃいけないことがあると改めて思いました。
今から書く話は書いていいのか本当に迷っていました。
いろんな批判があるかもしれないというのは勿論分かっているけれど、ずっといつか書こうと思っていたので今書きます。
今月の頭に、僕の同期が亡くなりました。
僕の会社は大きくないので、僕を入れて同期は5人しかいません。
うち3人は女の子で、残りの2人が僕と彼。
女の子3人はインターンからの選考で、僕は本採用で、彼は障害者雇用でした。
何という障害だったのかは分かりません。とりたてて彼の障害のことを聞くことはなかったし、それでも彼はよく自分が障害者だという話をし、そういうものだと思っていました。多分みんなが。
とはいえ彼は左腕が悪いんだということくらいは知っていました。
ある時彼は僕に「君はスーツをオーダーしてるんでしょ。僕は左腕の長さが右と違うから普通のジャケットだと不恰好で。僕もオーダーしたいからどこで作ってるのか教えてほしい」って言ってたこともあります。あれはお昼を食べに行くときでした。
このエピソードを思い出しながら僕はダルちゃんを読んでいたんですけど。
そんな彼が、突然亡くなってしまいました。
彼が亡くなる前の週の金曜が、彼の誕生日でした。
そういえば彼は留年だか浪人だかしているので、僕らより年齢は一つ上なのですが、最近はそんなことほとんど意識していませんでした。
僕と同じ部の同期とで会社の下のスタバに行き、彼はカフェイン弱いと言っていたのを思い出して、ケーキとアイスティを買いました。
ただのスタバの誕プレでも、彼はとても喜んでいたと、あとでお父さんから聞きました。
その日の夜に体調が悪くなり、一度持ち直したものの次の週の木曜に亡くなってしまいました。
彼の死は彼の障害のこととは全然関係ないことで、それもあるのかな、僕は本当にショックでした。
一つしか年の変わらない人が、昼間は元気だった人が、もう生きていない。
僕の生まれは以前も書いたようにど田舎なので、高齢化が進んでいて、周りの人が死んでいくのにはなんというか普通のことでした。
年をとり、やがて死ぬ。
彼の死はそんな簡単なルールの外側にありました。
だからどう受け止めたらいいのか分かりませんでした。
というか連絡が来てから何日かは本当のことなんだという実感が湧いていませんでした。
2、3日して僕たちは彼の葬儀に参列しました。
棺桶の中にいる彼を見たときに、それまで溜まっていた感情が全て溢れて止まりませんでした。
いろんなことを思い出しました。彼の家にあったウイスキー。毎日買ってきていたサンドイッチ。水曜どうでしょうが好きだと言っていたこと。同期で彼の家に行き海外のへんな食材を調理して食べたこと。マクドナルドのハンバーガーを食べたことなかったこと。今度は僕の家でスパイスからカレーを作る約束をしたこと。意外とFPSのゲームもするんだよって言って見せてくれたRazerの緑のヘッドホン。ランニングをしていると言って履いていた黒いアディダスの靴をお父さんが履いていること。
東京の斎場は田舎のそれとは比べ物にならないくらい大きくて、たくさんの家族がいました。
システマティックに次々に違う家族が呼ばれ、焼かれる。
骨になるまでの間、みんなで飲み物とお菓子を食べ、話しながら待って。
次に呼ばれた時にはもう彼は骨になっていて、斎場の人がこれは何の骨だとかいう説明をしている。
とても奇妙な空間だと思いながらも僕の涙は止まらなくて。
かと思えば同じように泣いている職場の先輩を見て不思議な気持ちになったり。
そうしているうちに彼の頭蓋骨が最後に被せられ、全ての儀式は終わる。
正直僕は未だに、言いようもない喪失感が押し寄せるときがあります。
でも僕はまだ生きていて、生活をしなければならない。
ダルちゃんのように普通の人に擬態しながら。
それでもたまには擬態から解ける瞬間が必要で、そのためにはあの奇妙にシステマティックな葬儀に(勘違いされたくないのは彼の葬儀だけがシステマティックだったわけではなく、出たことある人ならわかると思いますが葬儀は淡々と進むものなのです)出てよかったと思っているし。
そしてそのために、僕は彼のことを文章にしておくことが必要だったりするんです。
彼がそれを望んでいるのか、許してくれるのかは全然分からない。
だから僕が勝手に文章にし、死者を冒涜していると思う人もいるんだと思う。
でもこれは、僕なりの弔いだと僕は思っています。
担任が「本は契約だ」と言うのなら、僕は生きることも契約なのかもしれないと思う。ハンコ押した覚えはないし、誰との契約なのかも知らないけれど、少なくとも僕はモノとして存在しているはずなのでとりあえず生きなきゃなと思ったりするのです。生きる意味とかそんな嘘くさい話じゃなく。
おしまい。