白夜の綺麗な空と君のあいだに、の話
今話題の映画、『ミッドサマー』を観てきました。
監督は新進気鋭の若手アリ・アスター。ご存知『ヘレディタリー』で日本でも一躍有名になり、なんと長編二作目がこの『ミッドサマー』。
スウェーデンの僻地の村で行われるという90年に一度の夏至祭にアメリカ人の若者がノホホンと遊びに行くと、ドエライ祭りに巻き込まれてしまう……というエライヤッチャエライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ系のまさにお祭り映画です。(全く伝わらない説明)
アリ・アスターが監督を務めるということで、前監督作『ヘレディタリー』同様のヤダミ感MAXの映像and音と、手加減なしのゴア描写が描かれるらしいということで、公開前からTwitter映画好き界隈では大きな話題を呼んでいました。
そして何より、公開前から本国アメリカなどで観たと思われる(アメリカなどでは既に去年の夏頃に公開されてたらしい)人々の大量の感想Tweet、特に「残酷描写満載のホラー映画だけど、観たあとに訪れるのは多幸感」「これは一種のセラピー療法映画だった」「既に何十回も観てしまった」等の呟きに期待値MAXで観に行ったわけですが……。
以下、内容に関するネタバレ満載のお祭り状態ですので未見の方はご注意ください。
まずは、噂通り残酷描写(そしてこれまたグロいくらいのエロ描写)は凄まじかったです。
何が嫌だって、舞台となる村は大変緑豊かで、色鮮やかな花々や木々が咲き誇る、とても美しい集落なわけです。
しかも、夏至真っ只中ということで白夜。延々と明るい。暗くならない。(ちなみに白夜の中で不穏なことが起こっていく映画ではクリストファー・ノーラン監督作『インソムニア』を思い起こさせられました)
そんな素敵な陽気の中で突然のUBASUTE!(文字通り姥が捨てられるわけです崖から)
潰れるおばあちゃんの顔面!
そして死に損なったおじいちゃんの頭に叩きつけられる容赦ない木搥!
人体損壊描写が明るいのどかな村落で行われる感じってめっちゃ怖いんですよね。予告などでも謳われていた通り、明るいからこそ恐ろしいというルックはさすがだなあと思いました。
ただですよ。ストーリー展開としてはそんなにサプライズが起きないんですよね。
あの予告編とストーリー設定を聞いて、それなりに映画を観てたりする人ならだいたい思いつくようなことが、順番に起こっていくわけです。
例えば、なにやら怪しげな村の祭りを見学しにいくとただでは返してもらえず生贄になるんだろうなあと思ったらやっぱりなるし。
そして部外者が一人逃げようとすると消え、その人を追いかけようとすると消え、村の伝統を尊重しない奴が消え、村の秘密を暴こうとする奴が消え…なんていうのもホラー映画のそして誰もいなくなっちゃった(別名、各個撃破作戦)のお手本のような流れですよね。
そして事前に予測がついていなかったようなことも、これからの展開をあからさまに予感させる描写ばかりなので、ストーリー的にはそんなに大きなサプライズがない印象でした。
代わりに何が怖くなるかというと、事前に暗示され危惧していたおぞましい内容が、丁寧に、順番に描写されていく感。これがすごい怖いんですよね。ていうか嫌なの。
なまじ事前に予測できていただけに、「あちゃーやっぱそうなっちゃったかあ」感。言い換えれば「運命からは逃れられない」感がもうほんと嫌!!(褒めてる)
『ヘレディタリー』の時も「観終わってみると全ての出来事はこのエンディングに向かって一点の曇りもなく進んでいたのかぁ……」という感じが今作でもビンビンに発揮されていて、やっぱり作劇が上手いなあと思わされまれました。
と、かなり褒めているわけですが、観賞後になんだか引っかかっているなあと思ったらあれです。事前に聞いていた「観賞後の多幸感」なんてなかったぞ……?
あれを「セラピー映画」とか正気か……?という問題です。
観た後にTwitterで色んな感想を漁ったんですが、たしかに多いんですね、同じような感想を持っている人。
特に女性に多かった気がします。(もっといえばメンヘラ的な人ばっかだった気もするな)
で、どういうことなのかと思って深掘りしていったんですが、どうやらあれを観てスッキリしている人は「家族の喪失という人生の危機に、全く支えにならない彼氏&男性の嫌なところミエミエの友達たちが罰せられ、主人公を肯定してくれるコミュニティに出会えてよかったぁ幸せホクホク」みたいなことらしいんですね。
正気でっか??
まあ確かに、表層的には分断されて信頼関係が希薄な都会と、共感を大事にする田舎の集団という対立構造が存在しているのは認めましょう。
そして、その対立構造において主人公側の目線に没入すれば、全肯定してくれるホルガの村に居場所を見出したというのはハッピーなことなんでしょう。
……いやまじかその結論、ほんとに映画見てました?
これもTwitterで言われている意見ですが、果たして本当にあの村は、90年に一度だけ生贄を捧げているのか。絶対違うでしょ。主人公たちを悪夢に導いた元・友達通称元トモのペレの両親が焼死している件は??
エンディングで焼かれた村の生贄に「これを舐めれば恐怖も痛みも感じない」かなんか言ってたのに、ガクガクと震え、皮膚を焼かれる痛みに苦悶の叫びを上げて死んでいった村人の件は???
大夏至祭で選ばれるというメイクイーンの写真があんなに多いわけある????
そもそも伝統ある風に見せながらあの壁画とか妙に新しくないです?????
などなど。むしろ僕はあの映画を「共感という名の洗脳で成り立っている村に、メンタルが弱った女の子をとりあえず全肯定して手懐け、共感のサイクルに放り込むことで依存させる」という怪しい宗教勧誘を断れるか映画だと思ったんですよね。
あるいは胡散臭いマルチ商法にハマった友人から久々に連絡が来ても間違っても会いに行かないかどうか映画と言ってもいいでしょう。
あの村で最も重要にされているのは共感です。
姥捨山ならぬ姥捨崖から飛び降りて死に損なったおじいちゃんを眺めながら、さも自分の足がボキっと言ったかのように声の限り叫ぶ。
自分の彼氏が村に新たな血統を入れるための種壺と化しているのを見て泣き叫ぶ主人公に駆け寄り、息を合わせて泣き叫ぶ。
生贄として焼かれる9人をみて、一緒に叫ぶ、など。
共感することでみんなが一体となり、そして何より自分の居場所があるそこにと思わせられる。幻想。
でも逆に考えてください。そこに、異なる価値観が入り込める余地なんてないんですよ。
その共同体では、みんなが同じ感情を発露することが求められるんですよ。
幸せですか?そんな社会は。
確かに全肯定してくれるかもしれないけれど、あなたも同じように他者を全肯定し、寄り添わなきゃいけないんですよ?
あなたの言うことはわかるけど、僕はそう思わないなあなんて言おうものなら、熊の死体に詰められて生きたまま焼かれるんですよ?
共感されるというのは、弱っている人には必要不可欠なものなのは間違いないと思います。
でも共感って言っちゃえば簡単じゃないですか。「うんうん、わかるよぉ。辛かったんだよね。僕も君と同じような目に遭ったことあるからわかるなぁ、辛いよね。いいんだよ自分の感情をさらけ出して。自分を否定する必要なんてないんだよぉ」かなんか言っておけば、弱ってる人なんてコロっと落ちますよ。
これって大学に入ったばかりで早くも周りと馴染めず孤独感を感じてる大学一年生に、近寄ってくるマルチサークルと何が違うんですか!
あるいはずっと童貞で異性に慣れていないオタクめがけて、甘い言葉をかけて高い絵を買わせる秋葉原にあるようなお店とどう違うんですか!!
えーっとあとは、別れて喪失感がいっぱいなところにつけこんで、いっちょSEXでもしようとかと思ってるクソ男と一緒じゃないんですか!!!
それらはみんな叩くのに、どうして主人公に同じことしてるスウェーデンのクッソ気持ち悪いカルトに全肯定されてキモチヨクなっちゃってるんですか!!!!
何度も言いますが、共感なんて簡単です、言葉にするだけなら。
何年か前に、友達から電話で「死にたい」と相談されたことがありました。
僕は迷ったあげく「あなたの苦しみがどんなものなのか分からないけれど、僕に言えるのはあなたが死んだら僕は嫌なので死んで欲しくないな」と言ったことを覚えています。
それが、僕にできる嘘のない言葉だと思ったからです。
同じような出来事を経験しても、それをどう受け止めるかは個々人によって差が大きくあります。
意に介さないような人もいる一方で、ある人にはなんてことないことが、誰かにとっては死にたくなるような出来事かもしれないじゃないですか。
そしてその、僕には分からないけれど、誰かにとってはそうかもしれないっていうことこそが、ほんとの共感じゃないんですか。
死にたいと言っている友人と同じことを経験してきたわけでもなく、そもそも幸運にも僕はこれまで死にたいと思ったことがまだないので、彼の気持ちなんてわからない。し、分かってあげられない。
これだけを見れば、確かに関係はとても希薄で、ディスコミュニケート的であるのかもしれない。
でも、そこで分かったフリをするのってすごい無責任だし狡いと思うんですよね。
中島みゆきは言いました。
君の心がわかる、とたやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
Twitterで「ミッドサマーはセラピー」かなんか言ってる奴らは、中島みゆきに耳を貸すべきなんですよ。
本当に怖いのは、ホルガ村の村人ではなく、あなたの中にもある承認欲求なのかもしれません。(世にも奇妙な物語でタモリさんが言いそうなセリフで締め)
あとTwitterでこの映画に全肯定されてる病んでる人たちね。
みんな病みすぎ!!怖いよ!!
おしまい
【追記】
もうちょっと映画そのものの話をオマケ程度に書いておくと、劇中で一番おっかなかったのはやっぱペレですよね。
あの村は一部の指導者層によって巧みに洗脳されてるっぽいので、外界を知らない村人たちが無垢に伝統(とか言われている無茶苦茶なルール)に従ってるのは理解できるんですよ。多分、常日頃から伊藤英明とかが食べてそうな楽しくなっちゃうキノコとかお茶とか摂取させられてるんだろうし。
でもペレは違うわけじゃない。一度村を出て、村でやってることがオカシイと思いつつ何もしてない友達を生贄として連れてくる。そこに罪の意識とかしてはいけないことをしていると知りながら。
その証拠にペレは72歳になると半強制的に崖から飛び降りさせられるというルールが存在していることを隠して友人たちを連れてきてるし。
で、彼氏に頼りなさを感じている主人公に「わかる、わかるよぉ」とか言いながら、彼氏の方には「彼女お前に不信感もってるぜやべえぜ」とか言って上手く分断し、片方は種壺にさせ、もう片方は祭り上げられる偶像に仕立て上げるという狡猾さ。
しかも最後は彼女自身が彼氏を生贄にすることを選んだように見えて、その心理状況を上手く作り出したのはペレで……っていう。やっぱあのラストに“共感”してる人たちってペレとカルトの掌の上ですよ。ああやだやだ。
こういうやり口だなっていうのが見えると、あの村は長い長い伝統と風習とかじゃなくて、むしろヒッピーとか人民寺院とかなんかあの辺のヤバさのほうを感じる気がするんですよね。変なキノコ食べてるし。
考えれば考えるほど、「あれ……あそこってやっぱなんかオカシイな」「あの説明ってほんとだったのかしら……」みたいなことが次々浮かんでくるので監督が言う通り「遅効性の毒薬ホラー」というのは間違ってなくて、極端な残酷描写とかジャンル映画というルックはほんと表層でしかないのだなあと思わせるあたり、さすがの手腕と言わざるを得ないのが現状というあたりですね。(宇多丸みたいな語り口)
今度こそおしまい。
【さらに追記】
ふと思ったんだけど、ホルガ側から追加で生贄に立候補した二人も、なるべくしてなったんじゃないか……。
追加の生贄というのはウルフとイングマールという村人だったわけですが、そのどちらもがこの村で失敗してしまった人々のように思えるのです。
ウルフは、祖先の遺灰を撒く神聖な木に立ちションするという無神経極まりない客人にブチギレおっさんですが、彼があんなにブチ切れていたのはあの木の管理責任者がウルフだったからではないかと思うのです。
でもそこにションベン引っ掛けられてしまったのでその責任を取らされた。
一方のイングマールはロンドンから二人の生贄を連れてきましたが、姥捨崖のシーンで連れてきた二人が騒いでしまい、シヴの手を煩わせた。それで腹を切らされたと思うと、納得ができるような。(そしてまたこのイングマールは元カノを友達に取られた腹いせに程よく殺そうとしてる感が匂わされてるのも結構キモチワルイ)
一方のペレは連れてきた4人のうち、一人は種壺に、もう一人はなんとメイクイーンになったってなわけで大層な草冠を被って誉高い感じになってたので出世したんだろうなあ。やっぱペレって狡賢い。
そう考えると今作は組織って怖い映画としても観れるのかもしれないなんて思ったり思わなかったり。
本当の本当におしまい。