僕と田舎、或いは結婚した彼と彼女への祝辞のようなものの話

この度、僕は久々に北海道の実家へ帰省をした。

 

実に2年ぶりの帰省である。もちろんこの2年間はコロナウイルスが社会を覆い尽くした2年であり、飛行機に乗れる日が(これもまた束の間なのかもしれないが)感慨深いものがある。

 

また今回の帰郷は実家に顔を見せるのと同時に、幼稚園からの友人の結婚式があったというのも大きかった。昨年末にも、別の友人から結婚式の招待があったのだが、情勢を鑑みて逡巡したのち止む無く欠席してしまっており、結婚する新婦とは共通の友人でもある彼にも会いたかった。

 

結婚式のために旭川に2泊した後は、高校時代の友人とレンタルルームで夜通し麻雀と飲み会が行われるという夜を過ごし、実家に帰れる期間は30日の昼から1日の昼まで。元旦の夜にはまた旭川のホテルに宿泊し、翌朝のフライトに備えなければならない。なんとも慌ただしい年末休みだった。

 

今から10時間後にはまた旭川へ向けて実家を出なければならないというのに、眠たい目を擦って大晦日のど深夜にどうしてこれを書いているのかといえば、この度の帰郷で実感したことがあったからだ。

 

人のいる空間が、うるさいのである。

 

もっと正確に言おう。リビングで流れているテレビや、レンタルスペースでかけていたBluetoothスピーカーから流れる音楽が、騒がしく感じて仕方がなかった。

 

特にテレビの音に関する不快感といったら半端ではなかった。確かに僕は一人暮らしの家にもはやテレビを置かなくなってしまったので、久しぶりに観たせいなのもあったかもしれない。

 

しかしよく考えてみるとおかしいのだ。僕は家ではほぼ常に、耳にイヤホンを挿している。そこでは音楽や、ラジオや、映画の音が絶えず流れているし、それらと比べると頻度は少ないがYouTubeにあがっているバラエティ番組的なノリの動画や、或いは配信サービスの似たようなそれを視聴することもある。

 

とすると、うるさいのはテレビそのものではなく、それが流されている環境にあるのかもしれない。

 

と、ここまで考えたところで原因に思い至った。僕が愛用しているイヤホンはAirPods Proだったのだ。

 

AirPods Proはその名の通り、とても優秀なデバイスである。無印のAirPodsとProの間にどんな性能の差があるのかというと、ノイズキャンセリングという機能の有無にある。

 

ノイズキャンセリング機能はとても素晴らしい技術で、簡単に説明するならば、外の音を取り込んで解析し、その波長を打ち消す音をイヤホンから流すことで外界の音をほぼシャットダウンできるのだ。初めてこのイヤホンをした時の感動は今でも覚えている。あまりにも静寂の世界に没入することができ、後ろから静音の車が走ってこようものなら絶対に気が付かない。実際、危うく轢かれてしまいそうになったのも一度や二度ではない。

 

僕の友達はその圧倒的静寂感を「つけた瞬間、世界は自分だけになる」ようだと表現した。JR SKISKIの「全部雪のせいだ。」に匹敵するほどのこの名コピーがあながち言い過ぎだとも思えないくらい、AirPods Proのノイキャンは優れている。Appleさんコピーの採用連絡を何卒お待ちしております。

 

ともかく、ほぼ無音の状況で耳にダイレクトに流れてくる、ある種ピュアな音に慣れきってしまっていた僕の耳は、広い空間にテレビから響くそのサウンドを不快な音だと認知するようになっていたのかもしれない。

 

 

 

実は一週間ほど前、僕は1年以上使ったAirPods Proを紛失してしまっている。

 

緊急事態宣言が明けた山手線は、時差出勤をしても両隣に人が必ず座るくらい人の往来が増え始め、経済がまた少しずつ回り始めて安心すると同時に、人の少ない快適な東京も悪くはなかったなと思ったりしていた。

 

どちらの肘も隣の人と触れ合うような電車の中、外したイヤホンのケースをポケットに仕舞うのは忍びなく、「絶対に忘れないようにしよう」「忘れないようにと思っていても忘れるんだから気をつけよう」と何度も思いながら、そっと自分の股の間の座席に置いた。ところが30分ほど揺られて職場の最寄り駅に着いた頃の僕は、やはりイヤホンのことなど忘れてしまっていた。

 

事前に予測しておきながら、その予測通りの行動をしてしまうのだからバカとしか言いようがない。しかも、いつもなら起きているか寝ているかに関わらずつけたまま電車にも乗る僕なのに、その日はたまたま外してしまったものだから、ケースと一緒にイヤホンも置いてきてしまった。

 

慌てて「探す」アプリで位置を見てみたものの、イヤホンをケースに仕舞った鶯谷の駅で位置情報は止まったままだった。今頃はどこかの誰かに拾われ、使われているのだろう。

 

その後、拾得物センターに電話を何度もしたが、ついぞ届けられることはなかった。そして翌週、新しいものを買い直すまでの間、箱に仕舞われていたノイキャンのついていない無印AirPodsを引っ張り出して使っていたのだが、その違和感たるやすごかった。

 

ノイキャン機能を使いながら、何の音も流さずほぼ無音状態にしながら外を歩いたりすることもある僕にとって、静寂の心地よさのようなものを、無くしてみて改めて実感した瞬間だった。

 

 

 

静寂の心地よさ、という話でいえば、僕は人と騒ぐ時間と同じくらい、自分だけの時間が大好きなのだと思う。一人きりの時間も、本を読んだり、映画を見たり、ゲームをしたりという比較的活動的な時間もあれば、ただひたすらスマホをいじったり、ぼーっとしたり、微睡んだり、いっそ睡眠をむさぼったりというナマケモノのような時間もある。

 

ある程度、人と楽しむ時間が増えてくると、例え誘いがあっても「ちょっと仕事をしなくてはいけなくて」とか「なんだか体調がすぐれないので」とか適当な言い訳をして引きこもる週末が、それなりの頻度で僕には必要なのだ。

 

そして、その時間のほとんどをAirPodsProによって、外界の音から途絶された世界の中で過ごしていることになる。

 

ここで、冒頭の話に戻っていく訳だが、こんな人間が同世代の友人の結婚式に出席していることが不思議で仕方なくはないだろうか。

 

今回の帰省で久々に友人と話すうち、すでに結婚したり、子供がいたり、さらには家族と家を建てたりしている友人が少なくないことに衝撃を受けた。

 

25歳である。僕の中ではそうは言っても「まだ」25歳だと思っているのだが、彼らの中では「もう」25歳という感覚なのだろうか。

 

何にせよ、定期的に一人の時間を確保することに躍起になっている僕にとっては、恋人との同棲もかなりのハードルなのだから、結婚をして子供を持つということの責任の重大さと、それを実際に引き受けて生活している彼らの覚悟という実存に圧倒されるばかりであった。

 

そもそも僕は家に帰って知らない人がいる生活というものが想像できない。「恋人は知らない人ではない」と反論してくる人も多いのだが、とはいえ究極他人ではあると思うのだ。

 

血が繋がっていればいいのか、というとそういう訳でもないように思う。流石に家族を「知らない人」であるとは思っていないが、ある程度の距離感は保っていたいと考えるタイプの人間なのだと思う。そういう意味では高校から、という早いタイミングで実家を出たことは僕の人生にとって良かったんじゃないかと思う。

 

今日だって晩御飯の後、リビングのソファで紅白歌合戦を見る母と妹、その横で本を読む父と、そのソファの後ろにあるダイニングテーブルの椅子で本を読む僕がいた。ほとんど同じ空間だったし無意識にやっていることではあるのだが、分析してみようという視点で思い返してみると、そこに何らかの分脈を読み取る人だっているだろう。

 

ましてや自分の子供となれば、想像を絶する怖さがある。考えてもみてほしい。自分の半分の染色体を持っているはずの子供は、自分のクローンではない。だから僕とは異なる一人の人格である。ところがきっと思うはずのだ。「僕、テニス部に入ろうと思うんだ」なんて子供が言い出したときに、(こいつ、俺はサッカー部だったのにテニス部かあ)などと。

 

もちろん、子供の人格には半分は母親の影響もあるし、もっと言えば子供が成長する中で自ら獲得していった知識や選択や経験からくるものが自我に与える影響だって大きい。だから子供を100%理解できるはずなんてないことは、僕だって分かっている。上に書いた部活の話は面白おかしく表現した例えだが、それでも、自分の子供が、自分の子供であるが故に、自分の理解のできない行動を取り始めることが、とても怖いのである。というか、そんな風に思う親になってしまうかもしれない、自分への怖さの方が大きいのかもしれない。

 

 

 

結婚式の三次会で、今は東京在住の新郎側の友人と話をした。彼の周りにいる友人の多くは結婚はまだまだ先のことだと考えている人が多いようで、それは僕の周りの友人ともほぼ同じ感覚だった。そしてそれはもちろん、僕にも共通する思いだ。

 

ところが、同じ世代で同じように育ってきたはずなのに、感覚はこんなにも違っている。

 

これは、どちらが正しいとか、どっちの方がいいとかそういう問題ではない。単純に地域の空気の差である。

 

そしてもしかするとこれは、日本の少子化と関係があるのかもしれないなどと思ったりもした。今、日本では少子化がどんどん進んでいるが、同時に東京・大阪・名古屋という三大都市圏への集中が高まっていると言われている。そして、そこに流入していく地方出身者の結婚は遠のいたりする。理由は地方と都心の娯楽や密度の違いだったり、ある意味ではリベラル都会人特有の価値観に染まっていく、みたいな話であったりするのだと思うけれど、ともかく結婚しない独り身若者は、こうやって作られているんだろう。

 

まあ理屈では前から分かっていたことではあったのだけど、それが可視化された帰省だったように思う。

 

 

 

今回の帰省では「帰ってきて北海道で仕事見つけたらいいしょ」であったり、「奥さんの顔見るの楽しみにしてるね」だったり、僕もこっちではそういうことを言われる年齢になったのだなと実感した。

 

前者はともかく、後者は地元のスーパーの知り合いのおばちゃんに言われたことなので「例え結婚相手ができてもここには連れて来ねえだろ」とは思ったものの、ふわっとした「いつかは帰ってくるんだろ」的な空気をそこかしこで感じた。だが、彼らは根本的に分かっていないのだ。

 

はっきり言ってしまうが僕は、前述したように結婚して家族を持てるような人間では今のところないし、ましてや北海道に(それが例え札幌という都市であってもだ)戻ってくる気だって全くない。僕は彼らが思っている以上に東京のことが好きなのだ。

 

様々な地方から人が集まる東京という都市は、それだけ様々な境遇や生い立ちやパーソナリティを持った人々が暮らしている。多様性がある、と言ってしまえばあまりにも簡単で空疎に響くが、要はそんなようなことなのである。

 

そしてそんな東京は、他人に冷たい街である、とも言われることが多い。そしてそう言われる時には決まって、東京は地方出身者が多く住んでいるから東京のコミュニティを愛していないせいだ、という話がセットでなされたりする。

 

だから、というわけでもないのだけど、僕は東京のことをちゃんと愛していこうと思うのだ。

 

そして、そんな僕の東京へのそれよりも大きく、愛し愛されている結婚した友人たちを、心から尊敬している。

 

これから先、もしかすると自分が生きてきたよりも長い人生を過ごしたいと思える相手が、彼ら彼女らにはいるのだ。それだけで、素晴らしいことだと僕も思う。

 

晴天の友となるなかれ、雨天の友となれ。

 

という言葉がある。苦しい時を、共に乗り越えられる人こそが、パートナーとして相応しいんだと素朴に思ったりする。

 

だから結婚した僕の二人の親友にも、大変な時には例え手を差し伸べられなかったとしても、寄り添ってあげられる関係でいてほしいし、ぶつかった時に例え相手を理解できなかったとしても、相手の立場をちょっとでも想像し合えるようなパートナーであってほしい。というか「あってほしい」だなんて僕は一体誰なんだ感がすごいので、なんかそういう感じがいいんじゃないでしょうか。

 

少なくとも架空の子供のことさえ理解してあげられない僕に、言われる筋合いはないはずなんだけど、簡単で無責任な心からの祝意として、受け取ってくれると嬉しいのです。

 

とにかく、二人の幸せが末長く続いていくといいな。

 

僕は僕で、東京という街を愛しながら、生きていくので。

 

おしまい。